はじめに
「このまま今の会社にいて大丈夫だろうか」「キャリアを自分でどう設計すればいいのか分からない」――こんな悩みを抱えるビジネスパーソンは少なくありません。特に日本の職場環境では、キャリアは「会社が作るもの」という考え方が長く根付いてきました。
しかし、VUCA時代と呼ばれる予測不能な現代社会において、従来のキャリア観は根本から変わりつつあります。「キャリアは組織内で形成されるもの」という伝統的な考え方から、「キャリアは自分で描くもの」という考え方へ。そして今、令和の時代には「キャリアは資本である」という新しい視点が求められています。
法政大学教授の田中研之輔氏は、最先端のキャリア学に基づき、「プロティアン理論」と呼ばれる新しいキャリア形成のアプローチを提唱しています。すでに30冊以上のキャリアに関する著書を出版し、多くの企業での研修も手がける田中氏のこの理論は、特に転職を考えていない人や、キャリアへの向き合い方に不安を感じている方にとって、新たな視座を提供してくれるでしょう。
キャリア論の変遷:組織から個人へ、そして関係性へ
キャリア論は時代とともに大きく変化してきました。その変遷を理解することで、現代における自分のキャリア形成の在り方が見えてきます。
昭和:組織内キャリア(伝統的キャリア論)
昭和の時代、キャリアといえば「組織内キャリア」(Organization Career)が主流でした。企業があなたのキャリアを決め、単身赴任も辞さず、副業は禁止。組織の中でのキャリアパスが明確に定められていました。
この時代は、「終身雇用」「年功序列」という日本型雇用システムの下、会社と従業員の間に強い信頼関係がありました。会社が社員の生涯を保障する代わりに、社員は会社に忠誠を尽くす。このようなシステムの中で、キャリアは「会社が与えるもの」という認識が一般的でした。
組織内キャリア型の特徴:
- 会社主導のキャリア形成
- 一つの組織内での昇進・昇格がキャリアの指標
- 長期的な安定と引き換えに柔軟性を犠牲にする
- 「会社の○○部長」というポジションがアイデンティティの中心
平成:自律型キャリア
平成になると、バブル崩壊後の長期不況により日本型雇用システムが揺らぎ始め、「個人の自由」や「ライフシフト」といった考え方が広まりました。組織から個人へとシフトしたキャリア観が主流になります。フリーランスが増え、個人の多様性が重視されるようになりました。
しかし、経済は停滞し、個人の自由と引き換えに安定感が失われる側面もありました。「自分らしく働きたい」という願いはあっても、実際には雇用不安や所得格差の拡大という現実に直面したのが平成時代でした。
自律型キャリアの特徴:
- 個人主導のキャリア形成
- 組織の枠を超えた職業選択の自由
- 多様な働き方の模索(フリーランス、副業など)
- 「私は○○をする人間だ」という専門性・スキルベースのアイデンティティ
令和:関係性のキャリア(ニューキャリア)
令和の時代に求められるのは、「個人と組織の関係性を紡ぎ直す」キャリア論です。田中教授は、平成型の「個人主導キャリア」をそのまま令和でも実践していくと、日本のビジネスシーンにとって「まずい」と警鐘を鳴らします。
これは「キャリアスタディーズ」と呼ばれる学問分野から発展したもので、キャリアを心理学的アプローチ(個人の内面)だけでなく、社会学的アプローチ(関係性)からも捉えます。つまり、キャリアは純粋に個人のものでも、組織のものでもなく、「関係性から生まれるもの」という認識が重要です。
例えば、あなたが今いる職場で活躍できているのは、あなた自身の能力だけでなく、その環境や同僚との関係性、組織文化など、様々な要素が組み合わさった結果です。同じ能力を持つ人でも、異なる環境に置かれれば全く違う結果になることもあります。
ニューキャリア(関係性のキャリア)の特徴:
- 個人と組織の双方向的な関係性に基づくキャリア形成
- 「組織の中にいる」から「組織を活かす」への発想転換
- 多様な関係性を通じた資本の蓄積
- 「○○さんが働いているのが△△会社」という個人主体の認識
どんなキャリア論が自分に合っているかは人それぞれですが、令和の時代においては、組織と個人の関係性を見直し、双方にとって価値のある形でキャリアを構築していく視点が重要になってきます。
キャリア形成の3つの課題
キャリア形成において、ほとんどの人が直面する3つの構造的な課題があります。これらは個人の問題ではなく、キャリア発達の各段階で多くの人が経験する普遍的な課題です。
1. 初期キャリア(20代〜30代前半)の不透明さ
キャリアの初期段階、すなわち仕事を始めてから約10年程度の期間で、多くの人が「このままでいいのか」という不安を感じます。大学を卒業し、就職し、仕事にも慣れてきた頃に湧き上がる「このまま30年働き続けるのだろうか?」という問いです。
この不安は、あなた個人の問題ではなく、構造的な問題です。田中教授自身も大学教員として3年目に「このまま30年同じことを繰り返していくのか」という疑問に直面したといいます。
この時期にしっかりとキャリアを描くことが重要です。なぜなら、キャリアの初期段階での選択が、その後の長いキャリアの方向性を大きく左右するからです。
初期キャリアの課題に対処するためのポイント:
- 未来のキャリアビジョンを具体的に描く
- 様々な経験を通じて自分の強みと適性を探る
- メンターや先輩からのアドバイスを積極的に求める
- 資本(後述)を意識的に蓄積する
2. 中期キャリア(40代〜50代半ば)の停滞
中期キャリア(ミドル〜シニア)になると、多くの人が組織への依存度が高まります。「もうこの組織が守ってくれる」という意識が強くなり、新しいことにチャレンジする意欲が低下する傾向があります。
企業の人事部からは、「40代〜50代のベテランは仕事はしているものの、全然イノベーティブではない」「世の中が変わってきているのに、全然新しいことをやろうとしない」といった相談が田中教授のもとに寄せられるそうです。いわゆる「ガラ板層」「コンクリート層」などと呼ばれる状態です。
この状態も個人の問題ではなく、キャリア発達における構造的な問題です。組織に依存し、安定を求めるあまり、キャリアが停滞してしまうのです。
中期キャリアの停滞を打破するポイント:
- 組織依存から脱却し、自律的なキャリア意識を持つ
- 新たなスキルの獲得や異なる業務領域へのチャレンジ
- メンターからメンティーへの立場の転換
- 副業や社外活動を通じた新たな刺激の獲得
3. 後期キャリア(定年前後)のモチベーション低下
役職定年や定年が近づくと、モチベーションが大きく下がります。それまで大きなプロジェクトを動かし、チームをリードしてきた経験があっても、役割が減ることでモチベーションが低下しがちです。
また退職後も、健康であるにもかかわらず、時間を持て余してしまうといった課題が生じます。「好きな本を読んだり、運動はできるけれど、まだこんなに時間がある」という状態です。
さらに現代では、年齢が上の世代が「遅れている」「古い」というレッテルを貼られ、十分な能力と経験があるにもかかわらず、活躍の場を見つけにくいという問題も存在します。
後期キャリアを充実させるポイント:
- 培ってきた経験と知識を次世代に伝える役割の模索
- ライフワークやライフバランスの再設計
- 新たな社会貢献の形を見つける
- 複数の活動領域(マルチステージ)を持つ
これら3つの課題は、年齢や経験に関係なく、多くの人がキャリアの各段階で直面するものです。重要なのは、これらの課題を個人の問題ではなく、構造的な問題として認識し、意識的に対策を立てることです。
キャリア資本論:移動から蓄積へ
従来のキャリア論では、「A社からB社へ」「この業務から別の業務へ」という「移動」の観点からキャリアを捉えていました。この「キャリアトランジション」と呼ばれる考え方では、転職や配置転換などの「移動」がキャリア形成の主な要素とされてきました。
しかし田中教授は、「移動」ではなく「蓄積」の観点からキャリアを捉える「キャリア資本論」を提唱しています。移動それ自体に意味があるのではなく、移動を通じて何を自分の中に蓄積できたのかが重要だという考え方です。
「移動すればするほど、経験という貯金が溜まる」という視点で、キャリアを「資本の蓄積プロセス」として捉え直すことで、より戦略的なキャリア形成が可能になります。
キャリア資本には3つの種類があります:
1. ビジネス資本(ビジネスキャピタル)
仕事を通じて身につけるスキルや知識、経験のことです。例えば、モデレーションする力、番組を構成する力、分析する力、プログラミングスキルなど、様々な業務遂行能力が含まれます。
これらは目に見えないことが多いため、意識的に可視化することが重要です。「自分はどんなことができるようになったか」を定期的に振り返り、リスト化するといった取り組みが有効です。
ビジネス資本の例:
- 技術スキル(プログラミング、データ分析など)
- 業務知識(業界知識、専門知識など)
- マネジメントスキル(リーダーシップ、チームビルディングなど)
- コミュニケーションスキル(プレゼンテーション、交渉など)
- 問題解決能力(課題発見、ソリューション提案など)
2. 社会関係資本(ソーシャルキャピタル)
人とのつながり、ネットワークのことです。新しい環境や副業に挑戦すると、新しい出会いがあり、社会関係資本が増えていきます。
田中教授自身も、企業訪問を積極的に行うことで社会関係資本を増やしているといいます。「大学の研究室に来てください」と言われても、自分から「行かせてください」と企業に足を運ぶことで、新たな人間関係を構築しているのです。
社会関係資本の例:
- 業界内のネットワーク(同業者、取引先など)
- 異業種ネットワーク(異なる領域の専門家など)
- メンター・ロールモデルとの関係
- コミュニティへの所属(業界団体、勉強会など)
- 国際的なつながり(グローバルネットワークなど)
3. 経済資本(エコノミックキャピタル)
給与や資産など、経済的な対価のことです。不動産、株式投資、年金など、様々な形態の経済資本があります。
経済資本は、他の2つの資本と違い、比較的目に見えやすいものですが、長期的な視点で計画的に形成していくことが重要です。特に日本では「お金」の話をタブー視する傾向がありますが、キャリア形成において経済資本も重要な要素の一つです。
経済資本の例:
- 給与・賞与
- 不動産(住宅、投資用不動産など)
- 金融資産(株式、債券、預貯金など)
- 知的財産(特許、著作権など)
- 年金・保険
これら3つの資本は相互に関連しており、一方が増えると他方も増えやすくなるという特徴があります。例えば、ビジネス資本が増えれば経済資本も増えやすくなりますし、社会関係資本が豊かになれば新たなビジネス資本を獲得する機会も増えるでしょう。
また、重要なポイントとして、「資本だから一度獲得した資本は減らない」ということがあります。しかし同時に、「自分が動かなければ増えない」という特徴も持っています。つまり、意識的に資本を蓄積する行動を取らなければ、キャリア資本は増えていかないのです。
プロティアン理論:変幻自在のキャリア
田中教授が注目する「プロティアン理論」は、ギリシャ神話の変幻自在の神「プロテウス」に由来します。プロテウスは状況に応じて火になったり、水になったり、時には獣や人間にもなるという、様々な姿に変化する神です。
この理論は1976年にボストン大学のダグラス・ホール教授によって提唱されたもので、キャリアにおいても同様に、一つの役割や専門性に固定されるのではなく、状況に応じて変化していく柔軟性が求められるという考え方です。
プロティアン理論の特徴
1. 自己主導型のキャリア形成
プロティアン理論では、キャリアの主導権は組織ではなく個人にあるとされます。「組織の中にいる」という発想から「組織を活かす」という発想への転換が求められます。
自分がキャリアのオーナーであり、リーダーであるという意識が重要です。田中教授は「たけ(田中教授自身)はたけのキャリアを築こう、野島さん(インタビュアー)は野島さんのキャリアを築こう、みんなはそれをやろう」と表現しています。
2. マルチポテンシャリティの重視
「一つのことを極める」という従来の専門家像から、「複数の領域で活躍できる」というマルチポテンシャライト(複数の可能性を持つ人)の時代への変化を示しています。
例えば大谷翔平選手のように「二刀流」で活躍する人材や、複数の専門性を持つ「T型人材」「π型人材」の価値が高まっています。これは、一つの専門性だけでは激しく変化する現代社会に対応しきれないという認識からきています。
3. 価値観主導のキャリア選択
プロティアン理論では、組織の評価(A評価、B評価など)だけでなく、自分自身の価値観や成功基準に基づいてキャリアを評価することが重要とされています。
やりがい、働きがい、生きがいを感じながら、組織という舞台で活躍するという視点が大切です。外部からの評価に振り回されるのではなく、自分自身の内的な基準に基づいて意思決定を行います。
4. 継続的な学習と適応
プロティアン理論では、環境の変化に合わせて常に学び、適応していくことが求められます。固定的なスキルセットではなく、常に新しい知識やスキルを獲得し続ける姿勢が重要です。
例えば孫正義氏のように、財務からデザイン思考まで、常に新しいことを学び続ける姿勢が、長期的なキャリアの成功につながります。
プロティアン・キャリアvs従来型キャリア
プロティアン・キャリアと従来型の組織内キャリアには、以下のような違いがあります:
従来型キャリア | プロティアン・キャリア |
---|---|
組織主導 | 個人主導 |
長期的な安定を重視 | 成長と学習を重視 |
垂直的なキャリアパス | 多様なキャリアパス |
組織への忠誠 | 自己実現 |
「どこの会社の誰」 | 「誰がどこの会社で働いている」 |
単一の専門性 | 複数の専門性 |
過去の実績評価 | 未来への可能性評価 |
田中教授の調査によると、プロティアン・キャリア意識を持つ人は、組織内エンゲージメントスコアや心理的幸福度が高い傾向にあります。自分のキャリアを主体的に考え、設計することで、仕事に対する満足度や幸福感が高まるのです。
キャリア戦略実践のためのワーク
キャリア資本論やプロティアン理論を実践するための具体的なワークについて紹介します。
キャリア資本シートの作成
キャリアステージ(初期・中期・後期)ごとに、3つの資本(ビジネス資本・社会関係資本・経済資本)をどのように蓄積していくかを書き出すワークは非常に効果的です。
具体的な手順:
- A4用紙などに表を作成します(縦軸にキャリアステージ、横軸に3つの資本)
- 各マスに、そのステージで獲得したい/獲得した資本を書き出します
- 2週間に1回、5〜10分だけでも継続して見直し、更新します
例えば「初期キャリア×ビジネス資本」のマスには「TOEICスコア800点獲得」「法人営業で年間〇件の新規獲得」など、具体的な目標を記入します。
このシートは完璧である必要はなく、おおよその方向性を示す「キャリアの地図」として活用します。重要なのは定期的に更新し、自分のキャリアを意識的に設計する習慣を身につけることです。
未来日記を書く
多くの人は過去の振り返りばかりしていますが、プロティアン理論では「未来戦略」を描くことが重要です。
具体的な手順:
- 毎日の日記を書く時間を確保します(例:寝る前の5分間)
- 日記の一部(例:100文字程度)を「明日こうしたい」「3ヶ月後にこうなっていたい」という未来の姿を描くことに使います
- できるだけ具体的に、ポジティブな未来像を描きます
田中教授によれば、歴史的なイノベーターたち(松下幸之助、本田宗一郎、孫正義など)は、過去の反省よりも未来のビジョンを常に描いていたと考えられます。
「なぜこんなに売上が立たなかったか」「なぜこんなに開発できなかったか」と過去を振り返るよりも、「自分のキャリア」「自分の組織」「社会」の未来について考えることで、モチベーションが高まり、行動が変わってきます。
セルフメンテナンスチェック
キャリアも定期的なメンテナンスが必要です。自分のキャリアコンディションを定期的にチェックし、必要な調整を行いましょう。
具体的な手順:
- 自分のキャリアの現状を5段階で評価します(5が最高、1が最低)
- 特に「1」がついた項目に注目し、改善策を考えます
- 具体的なアクションプランを立てて実行します
田中教授は「キャリアコンディションで1が3つもついているのに、なぜ対策を立てないのか」と問いかけます。私たちは学校教育で5段階評価の「1」を取ることはほとんどないにもかかわらず、キャリアにおいては「1」の状態を放置していることが多いのです。
チームでのキャリア戦略会議
個人だけでなく、チーム単位でキャリア戦略を考えることも効果的です。
具体的な手順:
- 定例会議の一部の時間を使って、チームメンバーそれぞれのキャリア戦略を共有する場を設けます
- 「3ヶ月後までに我々のチームはどうありたいのか、どうなりたいのか」というビジョンを共有します
- お互いのキャリア資本の蓄積を支援する方法を話し合います
多くの企業では「なぜ昨対に比べてこんだけしか出ていないんだ」「なぜこんな結果なんだ」と過去の数字を詰めることに時間を使いがちですが、むしろ未来のビジョンを語ることに時間を使った方が、チームのパフォーマンスは向上する傾向にあります。
転職のタイミングは?
キャリア資本論の観点から見ると、転職は単なる「移動」ではなく、「資本の蓄積」の一環として捉えることができます。では、転職のベストタイミングはいつなのでしょうか。
田中教授によれば、「今いる現場の資本を全部吸収して自分のものとした」と断言できるタイミングが転職のベストタイミングです。つまり、現在の環境からこれ以上資本を得ることはないと確信できる時が、次のステップに進む時だということです。
しかし、「もしかしたらあともう一つ宝があるかもしれない」と感じるならば、まだ宝探し(現在の環境での資本蓄積)を続ける価値があります。
その際、副業という選択肢も活用できます。キャリアは「AかB」というオア思考ではなく、「AもBも」というアンド思考で捉えることが大切です。例えば、現在の会社に在籍しながら副業を始め、新たな資本を蓄積するという選択肢もあります。
転職を考える際のポイント:
- 現環境での資本蓄積状況の評価 現在の環境からどれだけの資本を獲得できているか、まだ獲得できる資本は残っているかを評価します。
- 次の環境での資本獲得可能性の評価 転職先でどのような新たな資本を獲得できる可能性があるかを評価します。
- 複線的なキャリアパスの検討 転職だけでなく、副業、兼業、社内異動など、様々な選択肢を検討します。
- 資本の継続性と移転可能性の確認 現在持っている資本が次の環境でも価値を持つか、活かせるかを確認します。
キャリアの選択においては、短期的な給与やポジションだけでなく、長期的な資本蓄積の観点から意思決定を行うことが重要です。
令和時代の働き方:副業と本業のバランス
副業は令和時代のキャリア形成において重要な選択肢の一つです。政府も副業・兼業を推進しており、多くの大手企業も副業を認め始めています。副業を活用する際の重要なポイントは以下の通りです。
副業選択のポイント
- 本業と「枝の違うこと」に挑戦する 本業と全く同じことをするのではなく、「枝の違うこと」に挑戦することが重要です。専門性を一つに絞るのではなく、複数の軸を持つことで、変化の激しい時代に柔軟に対応できます。 例えば、本業がマーケティングであれば、副業ではプログラミングやデザインなど、異なるスキルセットを活かした活動を選ぶことで、複数の専門性を持つπ型人材になることができます。
- 機密情報やドメインの重複に注意する 特にハイテクノロジー分野などでは、企業の機密情報や知的財産に関わる業務を副業で行うことは避けるべきです。NDA(秘密保持契約)に違反する可能性があり、企業としても避けたい事態です。 本業と副業の領域が重複しないよう、事前に確認し、透明性を保つことが重要です。
- 本業の生産性向上と連動させる 副業を行う際には、単に労働時間を増やすのではなく、本業の生産性向上と連動させることが理想的です。 田中教授が紹介する例として、サイボウズの野水克也氏(現Kaizenグループ会社社長)のアプローチがあります。「本業を8割に抑えることができたら」という考え方です。つまり、現在の業務の生産性を高めて10の業務を8割の時間で行えるようになれば、残りの2割を副業に充てることができるという発想です。 やってはいけないのは、本業を100%の時間でこなしながら、その上に副業の時間(例えば30%)を上乗せすることです。これでは合計130%の負荷となり、心身に悪影響を及ぼします。
副業の現状と未来
現在、副業を認める企業は徐々に増えてきており、大手企業でも半数程度は何らかの形で副業を認め始めています。ただし、「本業と全く関係なかったらいい」といった条件付きの場合も多く、現実的には難しい制約が課されていることもあります。
田中教授によれば、今後は副業・兼業が当たり前の時代になってくると予測されています。特に若い世代は「自律型キャリア」志向が強く、副業禁止の企業は「優秀な人材を獲得できない」「優秀な人材が他に行ってしまう」というリスクを抱えることになります。
企業側も単に「副業OK」という制度を整えるだけでなく、本業と副業の間で相乗効果を生み出すような環境整備が求められます。例えば、公募制や手挙げ制(ポスティング制度)の導入、副業で得たスキルや知見を本業に活かす仕組みづくりなどが進んでいくでしょう。
キャリア戦略の実践:未来思考の重要性
キャリア戦略を実践する上で、最も重要なのは「未来思考」です。田中教授は、日本のビジネスパーソンの多くが「過去の振り返り」に時間を使いすぎていると指摘します。
「今日はうまくできた・できなかった」「なぜこの売上目標を達成できなかったのか」といった過去の分析はもちろん重要ですが、それだけでは前に進むことはできません。プロティアン・キャリアの核心は「未来戦略」にあります。
未来志向のキャリア戦略実践法
- 3ヶ月先のビジョンを具体的に描く まずは近い未来、例えば3ヶ月後にどうなっていたいかを具体的に描きます。あまりに遠い未来は漠然としてしまうため、手の届く範囲の未来から始めると良いでしょう。 例えば「3ヶ月後には○○のスキルを身につけている」「○○という業界の人脈を5人増やしている」など、具体的な目標を設定します。
- 「禁止的な未来」ではなく「近しい未来」を描く 未来を描く際には、現実離れした壮大なビジョンよりも、現在の延長線上にある「近しい未来」を描く方が実現可能性が高まります。これは「禁止的な未来」と対比して「近しい未来」と表現されます。 例えば「5年後には海外支社の責任者になっている」より「半年後には英語力を活かして海外プロジェクトに1つ参加している」の方が具体的で実現可能性が高い目標となります。
- 未来日記の実践 前述した「未来日記」の実践も有効です。毎日の日記の一部を使って「明日はこうしたい」「来週はこうなっていたい」といった近い未来の姿を描くことで、未来志向のマインドセットが身につきます。 習慣化するために、寝る前の5分間だけでも継続することが大切です。
- チームでの未来共有 個人だけでなく、チームやプロジェクトの場でも「この1ヶ月でどうなっていたいか」「半年後にはどんな成果を出していたいか」といった未来の姿を共有することで、チーム全体のエネルギーが高まります。 田中教授の友人である三井物産の役員は「ある部署に行くと全部売上が上がる」と言われるそうですが、その理由は「ずっと未来を語るから」だそうです。
未来思考が心理的幸福度を高める理由
未来思考がキャリア戦略において重要なのは、単に目標設定のためだけではありません。未来に焦点を当てることで、以下のような効果があります:
- 可能性思考が広がる 過去は変えられませんが、未来は無限の可能性があります。未来に焦点を当てることで、「できる・できない」の二元論から脱却し、創造的な発想が生まれやすくなります。
- 行動の原動力になる 明確な未来像があると、それに向かって行動するモチベーションが生まれます。「こうなりたい」という思いが「そのためには何をすべきか」という行動計画につながります。
- レジリエンス(回復力)が高まる 困難に直面しても、未来に希望があれば乗り越える力が湧いてきます。「今は大変だけど、この先には○○がある」という思いが支えになります。
- チーム全体の活性化につながる 個人だけでなく、組織やチームでも未来のビジョンを共有することで、メンバー間の結束力が高まり、パフォーマンスが向上します。
田中教授の調査によれば、未来戦略を描くことでエンゲージメントスコアと心理的幸福度が上がることが示されています。過去の振り返りよりも、未来のビジョンを描くことにより多くの時間を使うことで、キャリアの充実度が高まるのです。
人口減少時代のキャリア戦略
日本は人口減少社会に突入していますが、田中教授は「人口減少と人材不足は別問題」だと指摘します。確かに人口そのものは減少していますが、女性の社会進出や高齢者の就労などにより、実際に働いている人(生産人口)の割合は増えてきています。
つまり、人材市場そのものはまだ潜在的に大きく、問題は「人材をいかに活かすか」という点にあります。テクノロジーの活用やキャリアリテラシーの向上によって、一人ひとりが躍動し、ポテンシャルを発揮できる社会を作ることが重要です。
特に令和の時代に必要なキャリアリテラシーとは、「一人ひとりが躍動すること」「一人ひとりがポテンシャルを発揮すること」です。組織に我慢してしがみつくのではなく、伸び伸びと主体的に動ける時代を作ることが求められています。
日本のビジネスパーソンのキャリア課題
田中教授の調査によれば、日本のビジネスパーソンは他国と比較して、組織内エンゲージメントスコアや心理的成功感(サイコロジカルサクセス)が低い傾向にあります。これは、まだ多くの人が「組織内キャリア型」で停滞し、苦しんでいることを示しています。
田中教授は約30万人に講演を届け、その中で約6,800人を調査していますが、その中で少なくとも2,000万人程度は組織内キャリア型で停滞していると推察されています。
そこで重要になるのが「キャリアオーナーシップ」の概念です。自分自身がキャリアのオーナーとなり、主体的に設計していくことで、エンゲージメントや幸福度が高まることが実証されています。
キャリアを拡張する:アンド思考の重要性
日本の社会では「一つの道を究める」という単線的なキャリア観が根強く存在しています。小・中・高・大と一つの進路を選び、一つの企業に入り、一つの専門分野で働くという流れです。
しかし、田中教授は「キャリアをオア(AかB)ではなく、アンド(AもBも)で考える」ことの重要性を強調します。一つのことに特化するのではなく、複数の分野でスキルや経験を積み重ねる「複線的キャリア」が、変化の激しい現代社会では有効です。
このアンド思考によって、キャリアの可能性は広がります。例えば:
- 会社員でありながら副業で別のスキルを磨く
- マネジメントと専門性の両方を高める
- 業界知識とテクノロジースキルを掛け合わせる
- 国内キャリアと海外経験を組み合わせる
こうした複線的なキャリア形成は「キャリアプラトー(キャリア停滞)」を打破する効果もあります。キャリアが停滞すると、最初の数年は楽しいものの、5年目くらいから悩み始め、停滞感を感じるようになります。この停滞を打開するために、新たな挑戦や学びを取り入れることが重要です。
キャリア資本の蓄積を始めよう
キャリアは資本であり、一度獲得した資本は減りません。しかし、自分が動かなければ増えることもありません。令和の時代に求められるのは、組織に依存するのではなく、自ら主体的に動き、様々な資本を蓄積していくキャリア戦略です。
具体的には:
- 3つのキャリア資本(ビジネス資本・社会関係資本・経済資本)を意識的に蓄積する 定期的にキャリア資本シートを更新し、どの資本をどのように増やしていくかを計画します。
- プロティアン的な柔軟性を身につける 一つの役割や専門性に固執せず、状況に応じて変化できる柔軟性を養います。
- 未来思考を習慣化する 過去の振り返りよりも未来のビジョンを描くことに時間を使い、未来日記などの実践を通じて未来志向のマインドセットを身につけます。
- アンド思考でキャリアを拡張する 「AかB」ではなく「AもBも」という発想で、複線的なキャリアを構築します。
- キャリアのオーナーシップを持つ 「組織の中にいる」という発想から「組織を活かす」という発想に切り替え、自分がキャリアのリーダーであるという意識を持ちます。
キャリアは一生涯にわたるマラソンです。短期的な評価や報酬に一喜一憂するのではなく、長期的な視点で資本を蓄積していくことが、充実したキャリアを築く鍵となります。
今日から、キャリア資本シートや未来日記など、具体的なツールを活用して、あなた自身のキャリア戦略を描いてみてください。そして、プロティアン(変幻自在)の精神で、変化を恐れず、むしろ変化を楽しむキャリア形成を目指しましょう。